クリーム色の背景に「エンジニアはAIに置き換わっていい。本質はコードの外にある」というタイトルと、波線と?が描かれた黒板、コードエディタ、チョークを持つ手の線画

エンジニアはAIに置き換わっていい。本質はコードの外にある

エンジニアは、AIに置き換わっていいと私は思っています。プログラムを書くことも、システムの開発や運用保守も、私の仕事の本質ではありません。本質は誰かの悩みや課題を解決することです。最近Xで、AIでプログラムを書く人は「自分で解き方を思いついたときの誇り」を一生知らない、という強い批判を見かけました。うなずけるところもあります。それでも私は、コードを全部AIに書かせています。

「自分で思いついた誇り」を知らない、という批判

きっかけは @sammycore333 というXのユーザーのポストです。9月24日のポストでは、AIやバイブコーディング(AIに雰囲気で指示を出してコードを書かせるやり方)に頼る人は、自分で問題の解き方を思いついたときの誇りや満足感を決して知ることがない、という趣旨のことを書いていて、1万460件の「いいね」が付いていました(元のポスト。言葉づかいがかなり荒いので、ここでは中身だけ紹介します)。

解き方を教え込まれた子ども

この議論を見ていて思い出したのが、少し前にXで見た、ある数学者の言葉です。誰だったかは覚えていないのですが、AIが難しい数学の問題を解いてしまうのは、子どもに公式と解き方を教え込むようなもので、「なぜそうなるのか」を自分で見つける喜びを奪ってしまう、という話でした。

これは、まさにそのとおりだと思います。

実際に、数学ではそれに近いことが起きています。Xのまとめによると、OpenAIは10月6日に、AIが書いた数学の原稿722本を公開しました。372の系統の未解決問題を扱っていて、そのうち16は、2022年にフィールズ賞(数学のノーベル賞とも呼ばれる賞)を受けた Hugo Duminil-Copin さんが公の場で取り組んでいた問題でした。同じまとめでは、彼がショックを受けて涙ぐみ、自分の研究分野が消し飛んだと語ったと伝えています(Xのまとめ)。

私はもう、手を動かしていない

ところが、私自身はとっくに、手を動かす側からおりています。

先日公開した「Presyo Bantay」は、フィリピン農業省の価格PDFを読み取って、市場価格の推移をブラウザで見られるようにしたサイトです。このサイトのコードを、私は1行も書いていません。仕様を決めて、レビューして、テストを回しただけで、コードは全部 opencode(AIにコードを書かせるツール)の Muse というモデルに書かせました。

だから、「エンジニアはこれから必要なくなる」という話にも反対しません。いつか「エンジニア」という職業そのものが要らなくなっても構いません。ただ、その話はエンジニアを「手を動かすだけの人」だと見ているから成り立つものです。

アイデアを持つ人と、解決する手段を持つ人

ビジネスでいちばん大きな喜びは、社会の課題や、目の前の誰かの悩みや困りごとを解決する方法を思いついたときに来ると、私は思っています。これはまさに、数学で解法を思いついたとき、難問を解いたときの喜びと同じです。

私にとってプログラムは、その証明の過程にすぎず、証明や解法そのものではありません。そして、思いついた解法を形にする技術を持っているのが、たまたまソフトウェアエンジニアだっただけです。

アイデアを持っている人と、それを解決する手段を持っている人は、いつも同じとは限りません。だからこそビジネスが成り立ちます。

AIがすべてを解決してくれるなら、それはそれで構いません。でも、AIが作ったものを、さも自分が作ったかのように振る舞うのは、あまりにも滑稽です。

給料がいいから、たまたま適性があったから、という理由だけでプログラムを書いていた人は、もともとビジネスではさほど重要な存在ではなかったのだと思います。

もしこの世の中からプログラムを書く人間というものが必要なくなって、運用や保守まで全てAIができるようになったとしても、私は誰かの役に立ちたい。悩みを解決できるような、課題を解決できるような、そういう人間でありたい。

私は新しい課題を解決するために、常に新しいことを学び、AIとともに新しいものを提供し続けるでしょう。